少女

山手線を外れて、中野区、杉並区。

ぼくが好きな街があった。

吉祥寺は華やかさはなく古き良き街というわけでもないけれど、そこが良かった。街並みはカラフルというよりも統一性がなく、なんかとても汚い。住宅街が空気をあっぱくしていて90年代のオシャレになりきれていない感じが好きだった。

「写ルンです」を持った芋っぽい女子大生が住み着いてそうな街。

東京にきた時のコースはいつも、いつも同じだった。一度コースができてしまうと同じような道ばかりを歩いてしまう。

渋谷のバスセンターでバスを降りる。

夜行バスを降りると、道玄坂がこちらを見上げている。早朝だからか東京であっても流石に人通りは少ない。繁華街の片隅にある牛丼屋さんで朝ごはんを済ませ外に出ると、ピンク色のよくわからない服を着たお姉さんとか、目の下に大きなクマを作ったスーツのおじさんが目に入る。

それから新宿、渋谷あたりをうろうろして上野あたりまで出てみたり。最後は吉祥寺に流れつく。

総武線、中央線、京王井の頭線。三つの路線が交わる分岐点。境界線。

吉祥寺の南口を出ると井の頭公園がある。春になると桜が綺麗でとても良い心持ちがする。井の頭公園の真ん中に鎮座する井の頭池はいつも同じ色だ。雨の日も、曇りの日も同じ色。池の周りをうろうろと歩いているホームレスっぽいおじいちゃんまで見慣れてしまった。

ぼくが吉祥寺を訪れるのは井の頭公園に挨拶したいわけではなく、住宅街の感じが好きだから。80年、90年、ブラウン管を通して家族を賑わせたトレンディードラマ。その物語の舞台は渋谷でも、東京タワーの下でもなくゴチャゴチャした住宅街の街灯の下だった。

だからぼくは北口を出る。北口を出て中央線の方へ、左へ向かって歩く。行き先はわからない。どこへ行っても、どこまで行っても、グーグルマップで引き戻されるのだから、できるだけ遠くへ、複雑な経路で進みたい。帰り道を辿れないほど複雑な経路で、生活感の溢れたありふれた有機的な道を歩きたかった。

住宅街の真ん中に公園があった。ドラえもんに出てくる空き地みたいな。多分、その「空き地」ほど物語を抱えてもいない。そんな公園だった。トイレと、少し大きめの砂場だけがある公園。

周りは一面ねずみ色。コンビニの看板すら恋しく感じさせるほど寂しい。

2年前、その公園を目標に吉祥寺に来たことがある。その時の季節は梅雨で、雨が降りそうで降らない、鬱々とした天気だった。

公園に着いた頃、砂場が急に黒く斑点模様を帯び出し、首筋に冷りとした感覚が伝う。雨が降って来たことは分かったが、もっと佇んでいたかった。この薄汚れた美しい街並みの中で雨を浴びて淋しくありたかった。

1分も経たないうちに雨水が体に染み込んでくる。そうすると冷静になって帰りの夜行バスのことを思い出した。急いでトイレに駆け込む。トイレの入り口はジメジメした湿気と尿臭い空気が包み込んで居心地が悪い。

東京だからか。いや、吉祥寺だからだろう。
そういう居心地の悪さも音楽的で詩的な空間に感じてしまう。そうやって街の雰囲気とそれに酔っている自分を堪能していると勝手に時間がたっていた。

気づくと、コンビニの透明な傘を差した女の子がこっちを見ていた。明るい茶髪に何処かのロックバンドのT-シャツとジーンズ。どんなスニーカーだったかもう覚えてはいないけど。

公園のトイレへ向かって歩いてくる。大きな砂場を避けながら歩いてくる。彼女の通った後にはもう水が溜まり出していた。

入り口までくると傘をパサパサと動かして雨水を弾きビニールをしぼめる。傘のたたみ方から彼女の神経質な性格が伝わって来た。丁寧に生きてる感じがとても良くて、彼女の動作1つ1つを見守ってしまう。

お手洗いから出てきた彼女が遠くを見るような目をする。
「雨すごいですね。」

「ほんとね。この辺、コンビニってありますか?」

「駅の方なら、、、」

ゆっくりとジメジメした会話が心地よい。目線を横に移すと思ったよりも若い少女の姿があった。

「吉祥寺に来たの半年ぶりなんですよねー。」

「ヘぇー、知り合いでもいるんですか?」

「いや、知り合いはいないんですけど。観光なんですよね。」

吉祥寺に観光なんて相当変わり者な筈なのに彼女の表情は変わらない。とても自然で、美しい。

それから同じような先を急がないリズムで話をする。

彼女は、17歳。通信制の高校に通っていて今日は一週間に1度の通学日だったらしい。

「良かったら私の家で雨宿りしていきますか。」

そんな大胆な提案も受け入れられるくらい自然なリズムで時間が流れていた。一定ではないけれど、街角のアスファルトを打ち付ける通り雨くらいにはノスタルジックに。

彼女の家は、吉祥寺駅からさらに離れたところにあった。三鷹の方が近いんじゃないかと思った。家に向かう途中の傘の中、出会ったばかりの彼女との傘の中は雨によって密閉され、2人の世界が広がっていた。

お互いの体温で空気が温められているのを感じる。

身体から滴る雨水と汗が混じりあって官能的な匂いが頬を火照らせる。

マンションの向こうから中央線を走る電車の、雨を切る音が聞こえた。

こー。ここー。ガタン、ガタン。こーこー。

「私ね。お家でうさぎ飼ってるの。」

彼女は、敬語を捨てる。

「え、うさぎ?珍しいね。」

「アパートだから鳴いちゃうペット飼えないもん。」

なるほど、うさぎの鳴き声は聞いたことが無いかもしれない。

「何色なの?」
「しろ。」

「メス?」
「ちがーう。男の子だよ。」

水たまりを砕く音で、会話が遮られないように少しずつ声が大きくなっていく。

「名前は?」
「シロ!」
「安直だなぁ。」
「アンチョク?」
「単純ってこと。白色だからシロなんでしょ?」
「あーね。」

傘越しに外を見ると、黄昏時のようにほんのり暗くなっていて視界がぼやけた。

「私のお家ここ。今、ママお仕事行ってるから安心して。」
「そっか。わかった。」

彼女の家は、典型的な集合住宅だった。
派手さのない白色の建物、どこかで見たような玄関の扉。建物全体から生活感が漂ってきて少し安心する。

そんな、アパートの二階。階段を登って手前から2番目が彼女の帰る場所だ。

「ただいまー」

誰もいない部屋に彼女の声がゆっくり浸透して消えていく。

玄関から入ると、最初に台所があって、奥に畳の部屋が二部屋あるようだ。台所はオシャレな食器が並べられているわけでも無いけれど、とても綺麗で、シンクの上にキチンと洗った食器が並べられていた。

彼女はカバンをダイニングテーブルの上に放り投げて、台所の隅へ駆け寄る。

大型犬用のケージの中に一羽のウサギがいる。小さなトレーの中に水と小さくカットされた人参が入っていた。

なるほど、さっきの「ただいま」はコイツのためだったのか。

「そこで、手を洗って。」

彼女がシロに餌をあげながら背中で言った。

そういえば、雨水でべとべとしていた。
水道水で手をゆすぐとスッキリとした。ジメジメした蒸し暑い時期は水がとても気持ち良い。

手を洗って椅子に腰をかけると、彼女も餌やりをやめてぼくの向かいの椅子に座る。

「ねえ。コーヒー飲める?」

彼女のくすぐるような笑顔が可愛い。

「ブラックで余裕だよ。」

強がった。

「そっか。良かった。ブラックの方が作るの簡単だし。」

彼女はスッと立ち上がり背を向ける。冷蔵庫の中からコーヒーの入ったペットボトルを取り出してグラスに注いだ。

窓の外を見る。
雨はさらに強くなったみたいだけれど、家の中には雨音すら入って来ない。
『静か』というよりも『無音』に感じる。

「はい!ブラックコーヒー。私は、コーヒー牛乳だけどね!」

「ごめんね。ありがと。」

コーヒー牛乳が少し羨ましい。

オレンジと黄色の花柄が描かれた昭和臭いグラス。
ブラックコーヒー越しに見える花柄は花火みたいだ。

「はぁー美味しい。やっぱり、一口目は最高だよね。」

居酒屋で呑んでいるおじさんみたいなセリフ。
でも、確かに美味しい。
アパートの中の空気の香りとコーヒーの香りが重なり合って良い塩梅だ。

「うん、美味しい。ありがと。」

「あ、服濡れたから着替えてくる!ちょっと待てって!」

彼女は立ち上がって奥の部屋へ入っていく。

雨音が強くて良かったと思った。

帰ってきた彼女は体操服姿だった。

「へー、カッコいい体操服じゃん。」

「うーん。そうかなぁ?まあ、楽だし良いんだよね。」

椅子に座りながら彼女は答える。

それから少しの間、自分達の中学校の時の話や吉祥寺の話をする。

グラスの周りについていた水滴が消えていることに気づいた。

「ねえ、男の人って処女が好きなの?」

彼女の真剣な目が、突飛な彼女の質問を会話に馴染ませていく。
外見がませている分、思春期の女子高生らしいことを聞いてくるのが可愛くて、少し可笑しかった。

「うーん。確かに、『男は女の最初の男になりたがって、女は男の最後の女になりたがる。』らしいよね。
俺は、気にしないと思うけどなぁ。人によるよ、多分。」

「そっかぁ、、、」

掛時計が秒針を叩く音がさっきより大きく感じた。

「どうした?急に。」

「いや、2週間くらい前に始めて彼氏ができたんだけどさー。どうしたらいいか分かんないんだよね。」

「処女だから?」

「いや、処女じゃないから。。。」

理解して、次にかけてあげる言葉を探すのに時間がかかる。
漫画のワンカットみたいに頭の上にハテナマークを並べたくなった。

「そっかぁ、、、前の人とは付き合わなかったの?」

「うん、。まあ、お金貰ってヤッただけだから。」

出来るだけ、彼女の言葉をそのまま心に入れる。余計なことを考えないように。

「まあ、別にそれは良くない?ゴム付けてるし、結構お金貰えるし。こっちも、まあ、気持ち良い訳じゃん?」

こちらの返答の前に、彼女は言い訳を並べる。
ぼくはそういう色の話が人間味があって好きだし、変に慣れているので糾弾する気は無かった。
寧ろ、「そういう子好きだよ」なんて間抜けで残酷な言葉を投げそうで、そんな自分に呆れる。

「まあ、それが良いか悪いかはどうでも良いよ。
それで、どうして迷ってるの?今の彼氏さんと。」

絞り出した言葉が、あまりにあっさりし過ぎなような気もしたけれど。

「なんか、分かんないんだよね。どういう気持ちでデートして良いか。ヤるときも。」

「彼氏さんといて楽しくないとか?」

「いや、楽しいよ。楽しいけど、、、」

「っじゃあ。良いじゃん。」

「良いのかなぁー?、、、。なんか自分のカラダが汚いと思っちゃうんだよね。多分向こうは初めてだったと思うし。だから、、、。」

彼女の目が泣きそうに空になったグラスを見つめる。
ホントに彼氏さんのこと好きなんだな。と思った。

「好きなんだね。彼氏さんのこと。」

「そりゃ好きだよ!だから、彼氏が可愛いそうで、可愛そうに思っちゃう。私みたいなさ、、、。」

グラスが濡れる。

「彼氏さん幸せだと思うけどなぁ。そんなに想われて。」

彼女は、テーブルの上に両腕を枕にして横向きになった。横を向いているのに下を向いているような、上を向いているような、視点は定まっているのにどこにも視点がないような。そんな表情をして。

ぼくもウトウトしてきた。視界が狭まる。
慣れない東京を歩き回っていたのだから、それは疲れているに決まっている。

夜行バスまでの時間を携帯で確認する。
あと、3時間。
帰りのバスも渋谷から出るので1時間もあれば間に合うだろうと思う。

冷蔵庫の中から氷ができる音が聞こえる。

ガ、ガラン。ガラン。カラン。

彼女といると安心する。世界に二人しかいないような、孤独な筈なのに孤独じゃない感覚。

あぁ、このまま。このままでいい。

気がつくと、寝ていた。
時計を確認すると、短針は同じ位置に違う影を作っていた。

なんだか1年以上寝ていたような心持ち。

瞼越しの夕陽に起こされた。
雨は止んで外が暖かそうなオレンジ色に包まれている。そして、光が雲の隙間から降り注ぐ。

「起きた?」

いつのまにかグラスがシンクの上に片付けられていた。目の前には夢から覚めた彼女がいる。

「そと、晴れてるね」

晴れた空を見ると現実に戻されるような気がする。

「ベランダ。出てみよ!」

そう言いながら彼女はベランダの方に歩き出していた。

ベランダに出ると、目の前の一軒家の黒い屋根から光が反射して眩しかった。
彼女の笑顔が暖かい。
昼間の時間に精一杯のサヨナラを伝えるみたいな、この夕日と同じ。雨の降った昼間に。

「そろそろ、晩御飯の支度をしなきゃ。」

演技っぽく彼女が言う。

「へー、作るんだ。」

「料理得意なんだよね。意外でしょ?」

彼女はまだ空を向いている。

「意外だな。」

そう言って彼女の視線を追いかけた。

この空はどこまでも続いているのだろうと思った。

#この作品はフィクションです